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湛山亭たんざんてい』由来

2016年7月

 

妙光寺には茶室と呼ぶ小さな離れがあります。昭和29年に講演で訪れた総理大臣就任前の石橋湛山いしばしたんざんの為に建てられました。幸い近年茶室としての利用の機会が増え、このたび水屋の部分を改修しました。「これを機に名前をつけては」ということで、勝手ながら『湛山亭』と名付けました。
 

石橋湛山という政治家

石橋湛山は、早稲田大学で哲学と宗教を学び、後に現『東洋経済新報社』で多くの記事、編集に携わり昭和16年社長になりました。その主張は戦争反対、全ての植民地(朝鮮、台湾、樺太等々)の放棄、普通選挙の要求等々、徹底した民主主義・自由主義・平和主義で、戦時下でもその主張は揺るぎませんでした。

戦後の昭和21年、民間から吉田内閣の大蔵大臣に就任。占領軍経費の日本側負担軽減を実現し国民からは心臓大臣≠ニ称賛されましたが、占領軍から嫌われて公職追放となりました。昭和26年に議員として政界復帰。31年アメリカ追随を主張する岸信介に対抗して「社会主義圏とも国交正常化すべし」と自民党総裁選に出馬、僅差で競り勝ち総理大臣に就任しました。しかし就任後の全国遊説の無理から体調を崩し、「私の政治的良心に従う」と65日間で退任したのです。任期が全うできたら日本の民主主義はもっと確実なものになっていた≠ニの声がいまだにあります。
 

日蓮宗僧侶の長男

故あって母方の石橋姓を名乗りましたが、父は後に身延山第81世法主となる杉田湛誓たんせいです。湛山はその長男でした。父親が山梨県増穂ますほ町の昌福寺住職となり、小学3年生の時から昌福寺に暮らしました。
 「父が若くして弟子入りした山梨県の昌福寺という日蓮宗の寺院には古くから湛の字を名につけるならわしがあった。父は湛誓と称し、私もこの理由で中学を卒業するころ湛山と改名したのである」(『私の履歴書』)石橋湛山は生涯『日蓮聖人遺文集』を携えていたそうです。懇請されて日蓮宗の立正大学学長も16年間勤めました。作家・佐高信は坊主の精神を持つ指導者≠ニ評しています。
 

妙光寺とのご縁

昭和29年、先代住職は妙光寺第35世日寿上人没後150年忌の記念に、石橋湛山の講演会を催し大盛況でした。(2歳だった私に記憶はありません)当時の昌福寺住職の子息で、後に身延山第90世法主となった岩間湛良上人と先代が親友だったことがご縁のようです。
  そのとき、今「茶室」と呼ぶ新築した離れで、角田浜特産のワタリガニを食した湛山氏は、手に取った色紙にサラサラと墨で見事な蟹の絵を描き、千里横行≠ニ書き添えました。 その色紙は、現在妙光寺にあります。
 この時に随行された大学生の一人、沼義昭先生はのちに宗教社会学者となり、私の指導教授で仲人もして頂きました。来秋には後継住職となる私の長女には、身延山の岩間元法主から「良恵」と名付けていただきました。湛良の一文字を頂いたものです。
  こうした様々なご縁を後世に語り継ぐために、この離れを『湛山亭』としました。『湛山亭』で皆さんが先人に思いをはせ、安らぎのひとときを過ごされることを願っています。
(石橋湛山記念財団のHPから一部引用。)


*「千里横行」ルビ・センリオウコウ カニのようにどこまでも横に進む。
 中国古典からの利用で「信念を貫き通す」意と解されます。
 

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