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開創七百年記念インタビュー 
若者がみつめた妙光寺
―妙光寺をテーマに卒業論文を書いた大学生に聞く―

2015年3月号

新倉理恵子


後藤早紀さん(22歳)
早稲田大学文化構想学部社会構築論系4年生。専攻は「共生社会論」。
4月からは自動車関連のメーカーに就職が決まっている

後藤早紀さんは、御前様の友人である大分市・妙瑞寺の菊池泰啓住職の姪にあたります。卒業論文のテーマとして妙光寺を選び、昨夏の『送り盆』に調査に訪れました。無事に論文を書き上げて、今春大学を卒業します。卒業論文のタイトルは『「生」をささえる寺―妙光寺25年の歩み―』です。現代の若者の目に、妙光寺はどんなふうに映ったのでしょう。

Q.卒論で妙光寺を取り上げようと思ったのは、なぜですか?

後藤

 私の伯父、菊地泰啓が大分で住職をしています。妙光寺の小川住職とも親しくさせて頂いていて、伯父の寺にも「安穏廟」があり、そこに祖母の墓があって、いつもお参りに行っていました。墓石には「こんにちは」と彫ってあります。「安穏廟」には、よそのお墓にはない温かさがあるなぁと思っていました。
 卒論のテーマを決める時になって、「安穏廟」が少子高齢化社会にいち早く対応した特別な墓だということを知りました。それで伯父に相談して、永代供養墓をテーマにしようと決めたんです。

Q.最初に東京町田市・エンディングセンターの桜葬も見学にいったそうですね?

後藤

 3月の「桜葬メモリアル」(桜葬の供養祭)に、スタッフとして参加させていただきました。実はそれまでは、「安穏廟」も「桜葬」も、後継者不要の墓だという仕組みの点からしか見ていなかったんです。ところが、桜葬の交流会で「私たちは、墓がお隣のなの」と言う方たちに出会って、墓の問題が人と人のつながりの核になっていることを知りました。妙光寺は伯父の寺にある「安穏廟」のルーツの寺である上に、25年前の「安穏廟」開設時から毎夏フェスティバル(送り盆)を行って、人の交流に力を入れていると知って、ますます妙光寺に行こうと強く思いました。

Q.初めて妙光寺に来たのは、昨夏の「送り盆」ですね。どうでしたか?

後藤

 私は、山門の受付係をお手伝いしました。それで、あの山門から入ったところがいい、と思ったんです。バザーがあって、大道芸がある。そして昨夏は、「フェスティバル25年の歩み」のパネル展もやっていました。バザーでは、手づくりのものをいろいろ売っていました。あの入ったところに、老若男女が参加できるエンタメ性がすべて詰まっている感じがしたんです。院庭のトークでは、話を聞いている人たちの熱心な姿に、驚きました。本当に皆さん、一生懸命なんですよね。
 「送り盆」は、遊びと学びがメリハリをつけて、ギュッと詰まっている催しだと思いました。

Q.その中で、いろいろな人たちに話を聞いてまわっていましたね。

後藤

 たとえば、お茶の先生をなさっている方のお話をうかがいました。最初は普通の会員さんで、お墓参りに来たりしていらした。でも通ううちに、お寺に愛着が湧いてきて、この緑に囲まれた境内が心地よくて、今はお茶席のブースを担当されている。最初は自分自身のためにお寺に来ていて、今は皆の役に立っている。まさに「自助」から「共助」だと思いました。妙光寺の「心洗われる」雰囲気に、皆さん愛着を感じていました。そして多くの方のお話を聞いて、妙光寺が墓に入るまでの期間を充実させる寺として皆さんの心の拠り所になっていると思いましたね。

Q.確かに、自分のためにお寺に通って、今はボランティアスタッフをしているという人は
  多いですね。

後藤

 自分の技能を活かしながら関わっている人が多いのには、感心しました。ロウソク作りは元歯科技工士さんで、司会は元アナウンサーの方。新倉さんも国語の先生ですし…。

Q.送り盆の後は、どうやって論文をまとめたんですか?

後藤

 実は、あの後もお寺に数日滞在したんですよ。ご前様に「これじゃ書けないよね。もう一泊する?」「ありがとうございます!」となって。それで、お寺の一室で25年分の『妙の光』をすべて読んで、必要なところはスマホで写真を撮りました。ご前様にも、何度も質問させてもらいました。「今のは、質問の仕方が悪い。聞きたいことがはっきりしてない」と叱られたりして。それで、東京に帰ってから、妙光寺の25年を表にしてまとめたんです。もう、そのころは論文になるのかどうか不安だったし、毎日食事は一回だけで、食べる暇も惜しんで頑張りました。

Q.私も「送り盆」で話した時、これまとめられるのかな、と心配でした。

後藤

 結局、最初は少子高齢化時代に必要な墓だと思って、「安穏廟」のシステムをさぐろうと思っていたんですよ。でも、そこにある人と人のつながりが重要なんだということがわかってきて……最初の見通しと違う方向になっていったので、大変だったんですね。

Q.表にまとめたら、方向性が見えたんですね?

後藤

 そうなんです。論文では、25年間を4期に分けました。第1期は、最初の10年です。この時期は家族以外の人たちとの助け合いのあり方が重視されています。そして本堂改築のころが第2期です。10年間の積み重ねの上で、本堂を核として新たに生きた仏教を発信しようとした時期です。そして生前契約を始めて京住院を再建したころが第3期。終活ノートを作ったこの2年間を、第4期と考えてみました。
 こうして4つの期間をふりかえると、人と人のつながりを追求してきた25年間だということが、よくわかりました。

Q.論文の題名は『「生」を支える寺―妙光寺25年の歩みー』となっています。
  どうしてこの題名にしたんですか?

後藤

 題名は、かなり悩みました。私の中では、サブタイトルとタイトルが同じ重みがあって、二大タイトルという感じです。
 ご前様が「安穏廟」を作った動機は、二つあると思いました。一つはお墓の後継ぎがいなくて困っている方がいたこと。もう一つは宗教が持っている人々への救済機能を発揮したいということです。
 それが、25年という年月をかけて出来上がっていった。「自分の人生をどうするかは、自分の責任だから」と言った安穏会員さんの言葉を論文に載せたんですけど、このお寺は人生を前向きに、真っ当に、楽しく生きようとしている人たちが、集まっている寺だと思いました。

Q.論文をまとめ終わって、今の感想はいかがですか?

後藤

 今の世の中は、お金があれば何でも手に入るようなところがありますよね。でも妙光寺では、それとは真逆の「人とのつながり」に重きが置かれています。その中心にいらっしゃるのが小川英爾住職です。膨大な労力を要する「送り盆」の運営を、困難を乗り越えて25年間続けてこられたことは、本当に素晴らしいと思います。
 有難いことに、教授からも良い評価を頂きました。でも、それ以上に自分の人生の中で大切なものができた、と実感しています。

また是非妙光寺に来てくださいね。ありがとうございました。

   
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